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継続するワクワク感!

イベントによるワクワクは一日かぎり、次々に考え続けなければならない。限られた時間の優先順位を考えれば、長いこと続くチューリップのワクワクを選んでしまう。
結果は大事だが、その過程を楽しむことが大切だ。だって、人生の結果は死だが、過程こそが人生だからね。
崖の草刈りのワクワクは『8月になったらこうなる』という、誰もやったことのない事への挑戦のナガ~イワクワクなんだよ。他人が見たら面白くもなんともない、ただ、シンドいだけの草刈が楽しくできるのは、心の中の自分が描いた未来を想像しているからなんだ。


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永遠という言葉

希望りんごの植樹際ではいつも『命の尊さ永遠に…』と記念碑に刻んでいる。
いつからこうなったのか記憶になく、なんとなくわかった気でいるが、深く思慮してできた言葉でないことは確かだ。
そこでいい機会だから時間について考えてみよう。
未来が現在にそして過去へと猛烈なスピードで目前を駆け抜ける。
私たちが今持っている、こんな時間概念は、いずれ地球や人類が滅びても続きそうだ。しかし、人のいない世界での時間の経過は、当たり前だけれど人にとって何の意味もない。人は生活するのに便利な時間を発明し、地球が一回、自転する間に一回転する時計を発明した。それを24で割って1時間と決め、同じように地球が太陽のまわりを一回公転するのを365で割って1日とする暦を作った。少々の誤差は閏年で埋める。地球の回転速度や公転速度は地球の創世記と今とでは同じであるはずがないので絶対的な尺度ではない。このようなことを考えるまでもなく、こんなあやふやな時間軸の延長線上に永遠という言葉を置きたくない。人の生命は余りにも短い。誰もがすぐにお別れする時間軸だ。だからこそ永遠という言葉があるなら、はじめから無い物ねだり憧れ的な表現だ。そんなの面白くない!全く違う概念の永遠が、限りある私たちの時間軸の今と交わっているように思えてならない。明日のことはわからない。今の今を精一杯生きよう!と願う所以だ。


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わが誕生日に思う!

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ハッピーバースデー
[法被(着せ)婆~捨て~]やて?おお、怖わっ!婆でなく、爺いでよかった?『ウバ捨て山』を思い出した。
長い間、生かされてきたのに、未だ、隣人を顧みる余裕のない自分を見ながら、捨てられんよう生きる道を探りたいと必死だ!
かって、オチ・オサムが私に『顔施』という言葉を教えてくれた。多くは語らなかったが、体が不自由になっても、『笑顔』で他者に施せる、という意味だと理解している。
みんなが正月に歳を重ねていた頃、『正月や、冥土の旅への一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし』と詠んでいた。
コヘレトの言葉には『生まれた日は呪われよ』という言葉もある。
つまり、誕生日は単純に『めでたい』日ではないのだ。
99歳のご婦人が『100歳になるのが嫌だ』と自殺したニュースが流れていたのは、つい先日のことだ。
どんなに悩みがあり、どんなに寂しい一人ぼっちの誕生日でも、『一人ぼっちのバースデー』と歌えば結構、絵になるのは若い日だ。高齢化者が『一人ぼっちの誕生日』と歌っても、そんな惨めなレコード(ちゃうちゃう今はCD)は、誰も買わん。

高齢時代を『おめでたく』生きるのは至難である。
歳を経てからの誕生日は、『めでたいか、めでたくないのか』の自分の生き方を自らが考える貴重な機会でもある。

私はコヘレトのように『生まれた日は呪われよ』とは思っていない。
来る朝ごとに、生かされていることを実感してから起床している。
私の誕生日は『死ぬまで生かされたるぞ!』である。
自分で買ったイチゴショートを前に、『このチッポケな、でも、私にとってかけがえのない、たった一つのデカイ命をありがとう!』って、神さまと差し向かいでお礼を言って、嬉し涙に泣き濡れて祝うよ。
神さまに『オメデトウ!』って言われる誕生日が迎えられたら最高だ。       
 ー毎年28歳の誕生日を迎える夢・遊人よりー


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続、残ったおにぎり3個のはなし 『いつも感謝していなさい』コロサイ3章15

『感謝しろ!』といわれても困るよな。大体、感情を表現する言葉に命令形はなじまない。『泣きなさい、笑いなさい』という歌があるにはあるが、宝くじが当たった人に『泣きなさい』と言っても泣かないし、財布を落とした人に『笑いなさい』というのも酷な話だ。基本的に悲しみや喜びなどの感情を表現する言葉に命令形はそぐわない。しかし、天下のバイブルの中には各所に『感謝しろ!』『喜べ!』などの感情表現の命令形が出てくるのだ。 
 可愛い我が子が服をどろどろに汚して学校から帰ってきた。『~ちゃん、どうしたの?また、ケンカしたのね。もう、あなたったら・・・さっさと服を着替えて勉強しなさいっ!』 
 しかしだ。ある日、子どもが暗くなっても帰ってこない。夜遅くなっても帰ってこないのだ。やがて、一本の電話が入る。これからはサスペンスドラマだ『お宅のお子さんを預かった。身代金~千万円をもってこい!警察に知らせると子どもの命はないぞ』だが、日本の警察は優秀だ。犯人はつかまり、無事、子どもが帰ってくる。こんな時の、親子が抱き合い、泣いて喜ぶ感動のシーンは何度もテレビで見ただろう。しかし、しかしだ。毎日元気に『ただいま!』って帰ってきたら、同じ状況でも喜び、泣いて感謝することは出来ないのだ。
さて、『いつも感謝していなさい』という言葉に戻ろう。どうだろう、命令形の言葉に違和感がなくなってはいないだろうか?人は勝手な生き物である。あるがままの幸せには気づかず、まるで、手の届かない遠い幸せだけが、幸せのように思い違いし、追いかけ、探し疲れているのだ。
今、今日、ある生命は『当たり前』ではない。夥しい奇跡の連続のなかで、赦され、生かされている生命なのだ。


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残ったおにぎり3個のはなし・・・今、あるがままの幸せ・・・

私はおにぎりを10個持って、毎朝出かける。しかし、昼食時になると、毎日決まって7個ドブに落としてしまうんだ。泥にまみれた7個のおにぎりを眺めながら、私は毎日、恨めしそうにつぶやく『なんて俺は不幸なんだ!この世に神も仏もないじゃないか!せっかく10個持ってきたのにタッタ3個しか残ってないじゃないか! 』 
そうつぶやきながら、帰ってこないおにぎりのことばかりを考え、毎日暗い人生を過ごしていた。しかし、ある時、気づいたんだ。『チョット待てよ!全部落としていたらどうだろう』そう考えると3個残ったことが有難かった。『まだ3個も残ってるやないか』 そう考えた途端に、残っていた3個のおにぎりが輝きはじめ、感謝の気持ちで心はいっぱいになった。『もう3個しか残っていない』というのと『まだ3個も残っている』というのは、同じ事実をどう考えるかだけの違いだ。しかし、ここが『幸せ』と『不幸』の分かれ道なのだ。そして、それを決めるのは、他ならぬ自分自身だ。悔しい事実から完全に逃れることは無理としても、やせ我慢を張ってでも、残った3個のおにぎりに感謝する訓練をしよう。チルチル・ミチルが青い鳥を見つけたのは探し回った森の中ではなく、探し疲れ、たどり着いた我が家の鳥かごの中だったのだから・・・ (この残ったおにぎり3個は、今あるがままの与えられた生命の比喩的表現です)  


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スリッパに神を見た!

九州に行くといつもオチ先生のところへ立ち寄り、お食事をご馳走になった。ご飯の炊き役はいつもオチ先生。お米の洗い方にも結構うるさく、こだわりのご飯だ。他愛のない世間話を楽しんでいたが、帰りがけにいつもオチ先生は『今日はいい芸術談義ができた』と喜んでくださった。『芸術談義なんかしてへんやん。単に世間話だけや』って言うと、『それが芸術談義なんだ』と。この言葉が嬉しかった。そうなんや、芸術って生活から離れ、お高くとどまっているものではなく、日常生活の真ただ中にある当たり前性の中の美を発見することなんや。それは、幸せが、探し求める対象ではなく、今あるがままの生命の中に見つけ、感謝するものであるのに似ている。 ある日、オチ先生が嬉しそうな顔をして『綺麗かろ!』と一点の作品を見せてくれた。僕は即座に『きたないわ!』と言い返した。それはアトリエで履き古したオチ先生の使用済みの汚れたスリッパの裏に球体が描かれた作品だった。『先生!履き古したスリッパの裏という概念で僕らは作品を見てしまう。これレストランに飾られへんやろ?』するとオチ先生が『そんなこと言うなよ、これをこんなふうに履き古したんは僕なんや・・・』そのときのオチ先生の悲しそうな顔がわすれられない。
4day今、私が自分が開発した生ゴミの堆肥化装置『4日ぼうず』に関して語るとき、『汚いものは何も無い。ただその上を人が通過したとき、ゴミという厄介なものを作り出す』と語るのはこの時の会話が影響している。この時、オチ先生は言った。『これを額装して綺麗に見せるのが画商の仕事だろ!』『額合わせは画商の仕事だ』という信念が私に生まれたのはこの時からだ。作家は絵だけに専念すればいい。鑑賞者との仲立ちは額縁も含めて画商の仕事なのだ。今、『私の絵にはこんな額縁を・・・』と注文を付ける画家がいたら、すかさず私は『画商の仕事に口を出すな!』と言うだろう。さて、古いスリッパの裏に描いた作品のオチ先生がつけたタイトルが面白い。『スリッパに神を見た』だった。
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遊人ファームの目指すもの!

遊人村ファームは檻の中の動物を見ていた動物園から、人間が檻に入って自然な動物を見るサファリに変化したような、植物版を目指しています。今は木に這っているは、クズとか野イバラでどうしようもないけれど、これをキユーリやゴーヤやぶどうに変える。キャンプで食事を作る時、畑に行かずにその辺の大根やキャベツやナスなどの野菜を探して作る。山うどもそのへんに植える。どうや、この降りてきたアイデア。・・・アイデアはええねんけど、実現はなあ・・・


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夢・遊人の本業!

オチ芸術に触れて下さい!遊人からのお願いです。それが『芸術とは何か?』を知る近道だと信じています。黒川遊人村の村長は天才画家オチ・オサム芸術の啓蒙を作家と共に、二人三脚で行う画商でもあるのです。
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法の下の平等とは!

私は自由主義者であり、平和主義者である。基本的に政治に関わりたいと思ったことは一度もない。しかし、今や、生活の前提として、自分の立ち位置を主張しなければ、無関心でいてはこの国が危ない。 長く続く保守政権の弊害を案じた私たちは、一瞬、民主党に期待したものの、官僚の奸計を見抜けぬ幼稚さに見事に裏切られた。マスコミが作り上げた悪役、小沢一郎という民主党政権を実現させた最大派閥のリーダーを政治的手腕の発揮機会を一度も与えず、不思議なマスコミの世論リードに便乗して抹殺した。私は小沢氏の支持者でも擁護者でもないが常識が常識として通っていない事を危惧している。外国の記者団が不思議がる我が国のマスコミ界の執拗な小沢叩き。みんなが、どうして国民がマスコミに乗せられるのかがわからない。小沢氏が純白なんて思っている人はいない。しかし、「何人も法の下で平等」であることは基本だ。なのに何故?政治家が裁判で勝訴すると必ずマスコミは「政治家の説明責任」を問うのだろう。もし、一般人が裁判で無罪になった場合、「無罪はおかしい。説明してくれ」というマスコミはいない。「何人も法の下に平等」というなら政治家だけを特別扱いしてはいけないのだ。


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『夢にお金を出す』と言われても・・・

昨日のNHKの朝チャンで、インターネット上で夢を語り、賛同者やサポーターから資金を集める話題があった。私がお金に縁が無いのを知っている仲間が電話で知らせてくれたので見ていたが、どうもしっくりこない。私たちが追いかける夢と、同じようでどこかが違う。いくつか感じたその一つが、『夢』ってお金で実現してしまうと面白くもなんともない、ということだ。二つ目は『夢』って逃げ水のようなもので、実現したと思った時には、また目の前に新しい夢が手招きしているので、生きている限り、終わりがないようにも思う。そもそも、~をしたい、~になりたい、~が欲しい、といった願望は私たちがいう『夢』ではないだろう。夢って、曖昧で、つかみどころがなく、自分でも気づかないものでさえある。ところが、車窓の景色は止まっていたら動かない。自分が動き出すと、次々に新しい景色が展開する。それが私たちを触発し、また夢が生まれる。夢の実現には確かにお金は必要だろうが、必須条件ではない。足らざるが工夫を生み、失敗を重ね、ささやかな何かを作り上げる。それが力を合わせた仲間たちの感動というご褒美なのだ。


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